選択的夫婦別姓とキラキラネーム

 

最近よく話題にあがる、名前に関するふたつの話題。

 

 

ひとつめ。

選択的夫婦別姓賛成派の意見として、制度手続き上の問題と、ジェンダーアイデンティティーの問題があるらしい。

 

制度上の問題は、別姓の通称使用というよく言われる解決方法だけでなく、苗字が変わっても煩雑な手続きしなくてすむようなシステムの構築が必要だと思う。

銀行では結婚して苗字が変わったら旧姓の口座からお金下せないとか聞いたことあるけど、そんなちゃちなことしてんなと言いたい。

行政も然り、その他のサービスも然り、苗字が変わったことでそれに伴う手続きをいちいちしていかないといけないのは面倒くさいと思うし、改革の余地があるところだとは思う。

 

それよりも、もうひとつの問題について。

結婚したら、女性が男性に嫁入りして、女性の姓が男性のものに変わるというのは古い時代のしきたりみたいなものというのはわかる。

今の時代、男女平等でというのもわかる。

ゆえに、男性が女性の姓を名乗ることもなんにもおかしくないと思う。

だけど、結婚して別姓で暮らしていくの?

 

曰く、姓にアイデンティティーを持っているから。

 

親から受け継いだだけの姓に?

 

 

 

 

 

ふたつめ。

キラキラネームがよく話題になっている。

 

キラキラネームの定義はさておき、他人とは違う、その子だけの名前を与えたいという気持ちからつけられることが多いだろう。

両親がつけるにしても、親族なり友人なりが名付け親となったとしても、届を出すのは両親だろう。すなわち最終決定権は親が持っていると考えてよい。

 

その子が大きくなって将来何を考えるかはさておき、

 

親につけられた名をアイデンティティとして人は生きていくのか?

 

 

 

 

 

 

 

ふたつの話題の共通点は

 

「名前はアイデンティティたりえるか?」

 

というところにある。

 

 

 

どこかのテレビ番組で、林修先生が言っていた。

世界に誇る日本人メジャーリーガーイチロー選手は、名前ではなくその業績で自らを示していると。

イチロー選手の本名なんて、銀行の記入例みたいなありふれた名前だけど、それでもあの人はすごいひとであるとみんなが認めている。

名前とは、姓も名も、親から与えられたものである。

アイデンティティは、自らが生きていくうえで確立していくものではないか?

アイデンティティはその人が何を為したかによって形作られるのではないか?

 

 

名前がアイデンティティとか言ってる人を見ると、「中身ねえのかなあ」と哀れに思ってしまう。

 

あんまりまとまらなかったけど、最近勉強してておもったことである。